元祖「井戸ケ谷切干」 
 磐田地方における甘藷(サツマイモ)は、文化年間(1804〜1817)難破船に よって西平松に伝わったといわれ、天保年間(1830〜1843)天竜川流域や磐田原の村々で広く栽培されていきました。
 明治初年に大藤の大場林蔵・稲垣甚七郎が、長期貯蔵できる加工食品として 「井戸ケ谷切干」を製造して評判になりました。
 当初は薄切りでしたが、明治25年(1892)頃に厚切りに改良され、日露戦争で保存食としての評価が高まると周辺農村に広まって、一大産地が形成されていきました。
  昭和初期のサツマイモの収穫→
 遠隔地への出荷で賑わった磐田郡甘藷切干同業組合
 明治末期には、当地方のほぼ全村で甘藷(サツマイモ)が栽培されました。特に磐田原大地は土壌に恵まれ、良品質のサツマイモを量産していました。
 サツマイモの品種は、早生種と中生種があり、当初は良質な南京藷・紀州藷の中生種で切干が製造されていましたが、大正期以降は収穫量の多い早生種が一般的になってきました。
 当地方のサツマイモは、切干だけでなく酒や澱粉の原料としても用いられ、ますます需用が高まりました。
 明治44年(1911)芋切干の名声を得ていた当地方では、品質向上と、販路拡大を目的として「磐田郡甘藷切干同業組合」を設立されました。  
  磐田郡甘藷切干同業組合の出荷製品→
 同組合では徹底したし製品検査を行い、郡外輸出品に関しては、旭印・桜印・梅印(優良順)にランクわけして出荷しました。
↑出荷芋切干の検量・検査及び荷造り ↑磐田郡甘藷切干同業組合における集荷風景
↑大量のサツマイモを蒸しています
 梅葉庄八商店
 芋切干の生産高は最盛期には、1期(4ケ月間)で約225万kgあったとされています。
 当時、芋切干を扱う問屋は見付に6〜7軒あり、なかでも古くからの乾物商であった「梅葉庄八商店」では、明治中期頃から大々的に販売を行なりました。
 全国各駅の運送業者に依頼して商店を紹介してもらい、販売可能な商店には見本を送って、販路を広げていきました。
 取引先は国内だけでなく、遠く台湾、朝鮮までも。国内では主として北海道や東北地方など寒冷地の需用が多かったようです。  
  イモ切干の宣伝用写真→
↑梅葉庄八商店から芋切干を大八車で中泉駅まで運ぶ ↑梅葉庄八商店の芋切干の出荷
↑サツマイモは水はけの良い砂質土壌に適した
↑蒸したサツマイモの皮を剥く ↑皮を剥いたサツマイモの両端を切り、芋切器で裁断する
↑裁断されたサツマイモは簾の棚に目一杯並べて天日乾燥する
 アルコール工場が中泉に
磐田アルコール工場は5階建ての近代工場で「ノッポ上屋」と呼ばれていました。↓

 軍国化が進む日本では、資源不足解消の一環として、代用燃料用アルコールが生産されるようになった。
 ガソリンにサツマイモを原料としたアルコールを混入して節約を図るというもので、国策に沿った軍需産業でした。
 昭和12年(1937)アルコール専売法の施行により、サツマイモ主産地に官営工場が建設されました。当地方でも翌年(昭和13年)中泉町に中泉酒精工場(後に磐田アルコール工場と改称)が誘致され、アルコール原料としてのサツマイモも生産されるようになりました。
 同時期に建設された中部澱粉工場(中泉)の需用と相まって、当地方のサツマイモは益々増産され、磐田工場の代用燃料としてのアルコールは、太平洋戦争の頃には全国第2位の生産高を誇っていました。
 
  戦前13箇所あった国営工場が次々と廃止、民間への払下げが進む中、磐田工場は有利な立地条件等が幸いして昭和61年(1986)に取り壊されるまで磐田の主要産業の1つとして操業しました。
 戦時中にバラ山でサツマイモを増産
 満州事変から日中戦争へ突入していくなか、サツマイモ作りは国策として奨励されました。
 昭和14年(1939)には富岡村のバラ山(現豊田町東原)に県立農業試験場甘藷原種圃が設立されました。
 圃場の開墾は、富岡村の人々らによって進められ、開墾された原種圃では、サツマイモや麦が栽培されました。
 これを契機に、周辺の大藤・向笠の百数十町歩の雑木林が次々に開墾され、磐田原台地は一面イモ畑となったほどでした。
 また、戦後の食糧難の頃は、当地方のサツマイモなど穀類を求めた買出し部隊で磐田駅は大混雑し「イモ列車」と呼ばれた時期もあったそうです。 
  富岡村の小学生もサツマイモづくりの勤労奉仕→

参考
磐田の記録写真集 第2集 磐田の産業
編集 磐田の記録写真集編集会議
発行 磐田市教育委員会 文化財課 磐田市旧見付学校

[戻る]



アジアンファッション雑貨のお店M−Turn